JACKAL – E-mail interview with Benny Petersen (G) & Per Fisker (Ds) (2019)(日本語)

(Front) Benny Petersen (G), Brian Rich (Vo)
(Back) Per Fisker (Ds), Søren Hee Johansen (B)

 

デンマークのJACKALにかつて在籍していたBenny Petersen (G)とPer Fisker (Ds)とバンドの思い出を語るEメール・インタビューをお届けします。Bennyは今後発売される予定の彼の新譜を、Perは現在在籍しているGRUMPYNATORSについても語っています。

 

 

S-ROCK: 今回インタビューに参加してくれるのは誰ですか?

Benny: 今香港への飛行機の中で座ってるんだ、Bennyが答えるよ。

Per: Per Fiskerだよ。元JACKALのドラマーさ。

S-ROCK: 1994年の日本ツアーでの面白い話はありますか?スウェーデンのMASQUERADEと一緒にツアーしましたよね、彼等についてどう思いますか?ツアーの前に彼等の事は知っていましたか?

Benny: 日本の観客の熱心さを体験するのは超かっこ良かったさ。曲にもの凄く興奮してて、ステージに手作りの横断幕を投げ入れてくれた。とてもいい体験だったよ。
来日する迄MASQUERADEの事は知らなかったんだ。”SURFACE OF PAIN”アルバムを聴いて嬉しかったな、ツアー中アルバムの何曲かは俺の頭の中でずっと流れていたからね。今でも彼等の音楽は大好きだし、彼等が成し得た事に敬意を表するよ。それに彼等は本当に良い人達なんだ。覚えてるのは、大阪のバックステージでTonyがZERO CORPORATIONから借りたタカミネの12弦を弾いてた事。彼はBLACK SABBATHの”MOB RULES”アルバムからの曲を弾いてたんだ、“Sign Of The Southern Cross”だったと記憶してる、いいなと思ったのさ、だって俺のお気に入りの1曲だからね。

Per: 確かに2、3いい話があるよ。特に東京は、高層ビルの間に何層にも高速道路のレーンがある様なインフラが整ってる。俺達がアコースティック曲をレコーディングした最先端のスタジオ、そして勿論空港で俺達を待っててくれた物凄く素晴らしいファンのみんなだ 🙂
(MASQUERADEは)素晴らしいバンドで、とてもフレンドリーで、彼らの音楽やビジネスにとても真剣だ。俺は今でも彼等のベーシストとたまに連絡を取ってるんだ。いや、来日する迄彼等の事は全く知らなかったよ。

S-ROCK: ZERO CORPORATIONが閉鎖された後、橋本徹社長は新たな会社を立ち上げ、現在レストランのオーナー・シェフをなさっています。彼とのエピソードはありますか?

Benny: 来日の最初の夜に黒髪の橋本徹氏は黒いコートを着て、彼の新車について話してて、「僕の車は何色だと思う?」と尋ねたさ、勿論彼の車は黒だよ。彼は俺達を素敵な日本の夕食に連れて行ってくれて、俺達はいい気分だった。俺は今でも、彼が持ってきていた黒のタカミネの12弦ギターを、コペンハーゲンの俺のスタジオに持って帰ってくるべきだったと思ってる。

Per: 最初に彼に逢った時、スーパースターに逢ったみたいだったよ。彼はかっこいいスポーツ・ワゴンでやって来て、最先端の設備の駐車場に停めたんだ。これ迄俺達には経験がない事で、小さなコペンハーゲンでは確かになかったさ。彼と夕食を共にして、俺達全員にとってとても良かったんだ。彼は素晴らしい印象を与えて、俺は彼のレーベルに所属している事をとても誇りに思ってたんだ。

 

1994年の来日時に名古屋城にて。

 

S-ROCK: 90年代にはJACKALの日本のファンクラブがありましたね。何か思い出はありますか?

Benny: JACKALのファンクラブの人達は、沢山の話や絵を掲載した本当に素敵な冊子を作ってくれていた。彼等はとても沢山の具体的な事柄に気付いて覚えていてくれていて、読むのが楽しかったし、独自のものだったね。自宅にそれらの冊子はまだあって、家の中のシェア・スペースの机の上に置いてあるんだ、興味を持って見てくれる日本人のゲストや賃借人が居るからね。

Per: 俺は日本のファンクラブと連絡を取ってたんだ。とても献身的でとても素晴らしい人達なんだ、今も友達なんだよ。彼等は沢山のとてもかっこいい事をしてくれたし、東京公演の時はファンと俺達のミート・アンド・グリートも実現させてくれたよ。

S-ROCK: これはデリケートな質問です、FREAK OF NATUREとのツアー中交通事故があって、Brian Richが重傷を負いましたね。そして貴方達のレーベルは彼の完全な回復を待とうせず、JACKALは解散してしまいます。その事故がなかったら、またレーベルが待っていてくれたら、JACKALは存続していたと思いますか?

Benny: 当時バンドはやる気満々でキャリアの頂点にあったんだ。バンドの継続に障害は何もないと思っていたのに、ハンブルグへの道中の事故はバンドに試練をもたらしたんだ、Brianの心が事故に影響されたのと同じ様にバンドに奇妙な雰囲気と不確実さを生んだのさ。
それが事故によるものでないのなら、バンドは存続して、少なくとも他のアルバムを制作していただろうと信じてるんだ。

Per: 事故は”A SAFE LOOK…”アルバムの発売後すぐに起こったよ、Brianなしでは俺達はライヴが出来なかったんだ、その後彼は長い間体調が優れなかったからね。BrianはJACKALの主力だったから、あの事故は間違いなくバンドの終焉の始まりだったのさ。

S-ROCK: JACKALが解散した後、貴方達2人はCarsten Olsen、Jesper Bangの2人とENCOREを始めます。1998年に日本で”FREE IN CHAOS”アルバムを発売しましたね、これは日本だけの発売でしたか?そしてこのアルバム・タイトルはJACKALからの旅立ちを象徴的に意味したのでしょうか?

Benny: ENCOREの”FREE IN CHAOS”アルバムを制作して発売した事は少し違った経験だったよ。Perと俺とCarstenは金を持ち寄って、平等な立場だったけど、Jesperは何も出来なかった。プロダクションに金をかけて、いざ手元に完成品が届いたら12曲の違うシロモノになってた。連中は興味も高みを目指す情熱も失ってしまった。その12曲は違った方向性を指し示し、そして突然Carstenが知的で眼鏡を掛けている様な別の方向性へ進みたがった、制作やイメージや音を試みる力もなく、俺達が始めた頃とは程遠い状態さ。俺はバンドを脱退し、バンドは何か月か継続したんだ、別レベルに到達しようと別の方向性で彼等は新曲を書いていた。そして彼等は活動を止めて、バンドは解散したのさ。
しばらくの間誰も既に完成していたものに関心を示さなかったから、俺は発売する事を決意したんだ。既にレコーディングが済んでいるものを無駄にするのは恥だと思ったからね、それで発売に向けて動いたよ。俺が主導権を取り続けて、アートワークや歌詞やカバーやインレイを手掛け始めた。日本での発売だけにしたけど、欧州や他の地域での発売も可能性がまだあると思う。

Per: そうだ、日本だけの発売だったよ。うーん、多分Bennyは何か心にあっただろうけど、俺はなかったな。俺にとってはタイトルでしかなかったからね。

 

ENCORE (L to R) : Benny Petersen (G), Carsten Olsen (Vo), Jesper Bang (B) and Per Fisker (Ds).

 

S-ROCK: 2009年にBrianは他のミュージシャン達とJACKAL名義で”IV”アルバムを発売しました、彼がJACKALの名義の権利を持っていたのですよね、彼は貴方達に参加して欲しいと声を掛けてこなかったのですか?

Benny: BrianはJACKALの名義の権利は持ってなかったよ。彼は名前を持ってきただけで、それ故にバンドが作った3枚のアルバムに示されて、俺達が一緒にやって来た事のトレードマークになった。実際彼は俺に参加を要請したさ。アルバムのレコーディング前に何か月か最初のラインナップで曲を演るリハーサルに参加したんだ。それは正確にはJACKALという感じではなくて、バンドのメンバー間で不合意が幾つかあった。加えて俺は、買い戻した家の修繕にとても忙しかったから、プロジェクトから手を引く事にしたのさ。Brianはたった1人のミュージシャンの助けを借りてレコーディングを終えたよ、Fifth Visionスタジオを所有するCarsten Falkenlindにね。彼は多才で、ドラムやベース、ギター、Brianのヴォーカルの下に置く楽器を弾くのと同じ位上手くプロデュースも出来たんだ。Falkenlindは俺のとても良い友達で、Brianが亡くなった時に残していた、”Something Somehow”とタイトルが付けられて彼のガールフレンドのJeanetteの40歳の誕生日プレゼントに用意されていた新たなキュー・ヴォーカルがあったんだ。残念ながらJeanetteも彼女の誕生日の2、3日前に亡くなってしまって、Falkenlindと俺は葬儀の前の2日間で曲を完成させる事にして、ギター、ベース、ドラム、バック・ヴォーカルをレコーディングして、アレンジした。その曲”Something Somehow”は2人の葬儀の為に作られて、YouTubeで歌詞付きのものを聴く事が出来るよ。

Per: 俺は彼(Brian)とは長年連絡を取ってなかったからね、だからなかった、彼は俺には話を持って来なかった。それに俺はENCOREの後はドラムを叩くのを止めてたから、彼はあの時は俺との運はなかっただろうね。
…でも2012年に、俺達全員でBennyの家に集まって再結成が出来ないか話し合ったんだよ。俺は断ったんだけどね、当時GRUMPYNATORSを始めようとしていた時だったからさ。

 

2009年に発売された”IV”アルバム。

 

S-ROCK: もう1つデリケートな質問をします。2013年の4月にBrianが亡くなりました。あの事故の後、彼がこの世を去る決意をするに至る問題があったのでしょうか?

Benny: 15年間BrianはJeanetteと一緒に居たんだ、彼女は彼の生命線だった。Jeanetteが亡くなった時、Brianの人生は止まった様な状態になった。彼が自殺する前の日の夜に、俺はBrianと何時間も話をしたんだ、彼は、この人生にしがみついていなくてはならなかったのは俺が彼に話した言葉が全てだと説明した。俺はBrianに生きろと励まし、花や鳥や蜂や、昇り続ける太陽の事を彼に話したからね。不幸にもそれは不十分で、現代版ロミオとジュリエットの世界に居たBrianは愛の名のもとに自殺してしまった。もしJeanetteが生きていないのなら、彼は進みたくなかったんだ…とてもとても悲しいよ。

Per: Brianは14日前にガールフレンドでソウルメイトのJeanetteを亡くしてしまった。彼女は自殺したんだ。Brianは彼女なしでは生きられなかった、だから彼も自殺してしまった。とても悲しい話なんだ。

S-ROCK: Per、2012年に貴方はGRUMPYNATORSに加入して、プロのキャリアを再開しましたね。バンドについて話してくれますか?

Per: 別の環境で約30年知っていた仲のいい友達とまた演り始めたんだ。デンマークでの5公演でVOLBEATのサポートをするツアーから始めて、その後欧州で125公演以上演ってきたよ。MIGHTY MUSICと契約する前に2枚のシングルを作ったんだ。彼等のレーベルで2015年に”WONDERLAND”を、2017年に”CITY OF SIN”をレコーディングした。今俺達は3枚目のアルバムの曲作りの最中で、2020年に発売出来るといいなと思っているんだ。

 

GRUMPYNATORS

 

S-ROCK: Benny、ENCOREの後何か音楽活動をしていますか?

Benny:俺が音楽を演り続ける限り、12歳で始めたんだ、俺は常に作曲者なんだ。JACKALでは殆どの音楽を作曲して、今も作曲しているよ。
実際に約10年間、俺のダブル・アルバム”OctoberChild”を発売する為の作業を続けているんだ、最近2枚に分ける事を決めた所なんだけどね。
2006年12月14日に俺は息子のNicholasを21歳で亡くしたんだ。俺の人生は止まってしまって、3年以上何もする事が出来ず、痛みを感じていただけだった。再び音楽を書き始め、口を開いた時、俺の心の中全てを吐き出したら、心の中にあったのは痛みと大きな喪失からの敗北感だった。
コペンハーゲンの俺の自宅にはスタジオがあって、2010年に書いてレコーディングした最初の曲、それが”OctoberChild”だ。”OctoberChild”の制作とレコーディングには約7カ月かかったし、俺を再びあの痛み全てと向き合わせたよ、俺の人生における最大の災難の中何が続いたのかを心の中から剥き出しにするんだからね。”OctoberChild”は俺の息子への誇りに捧げられた祝福なんだ。リード・ボーカルも含めて、全ての楽器を俺が演奏したのと同様に、勿論作詞作曲は俺がしているよ。
それが終わると、再び俺は立ち上がって走り始め、2011年にはマスターピースとなる”RainDance”の作曲に注力した。その際は俺の友達でSLAUGHTERHOUSEのHenrik Stendahlにドラムで少し手伝って貰ったよ。でもそれ以外は、残りの曲は自分だけで全て演奏したんだ。
3曲目は”Beat Heaven”で、無事に生死を乗り越える事についての告白、もしくは遺言みたいな形で書かれたものなんだ、天国を打ち負かさなくてはならなかったなんて事は、勿論現実の人生では不可能な使命なんだけどさ…。
詞や曲を書き続けた、“Waiting For Daylight”、“Before We Even Tried”、”May The Angels”、そして“Arrival – This Happens”…。
“Arrival”は、JACKALの3rdアルバム”A SAFE LOOK IN THE MIRRORS”のインストゥルメンタルとして書いたもので、興味深い理由でアルバムには収録されなかったんだ。あの曲はとても良くて興味深い話も含んでいるけれど、それはまたの機会に。
これらの最初の7曲は、俺の息子Nicholasが10月に生まれた事に由来する”OctoberChild”アルバムの1枚目のレコードに収録される予定なんだ。
俺が書く全ての曲には現実の体験が含まれているのさ、歌詞や曲に現実の人生で何が起こっているのか反映させる力を持っている事を俺が明らかにしたからね。
Brianは俺と一緒に、2013年に彼が亡くなる迄に4曲目迄のヴォーカルやプロダクションの手助けをしてくれていた。Brianは、Jeanetteと彼が「Bennyの音楽」と呼んでいたものを聴くだけの日がしばしば何日かあった事を話してくれていた。これは、俺の音楽がとても独自だという事によるものだね。
3週間前にCarsten Falkenlindが”Beat Heaven”を共同プロデュース、マスタリングしてくれたんだ、とても素晴らしい仕上がりだよ。
2019年10月18日に発売が決まっている新作”OctoberChild”を見逃さないでくれ。この期限が守られる事を祈ってるよ。
アーティスト名は単純にBenny Petersenになる予定だよ。

S-ROCK: Søren Hee Johansenは最近何をしているのでしょうか?彼はFACEBOOKを止めてしまった様で、彼がどうしているのか知るのは容易ではありません。

Per: 分からないなぁ。何年か前に一度彼を訪ねた事はあるよ。覚えてるのは、彼はIT関係で働いてるって事と、ベースは弾いてるって事さ。2012年にBennyの所で集まって以来彼には逢っていないんだ。

S-ROCK: JACKAL時代からの日本のファンにメッセージをお願いします。

Per: 当時俺達を応援してくれて、大阪、名古屋、東京のライヴへ来てくれたみんなに感謝するよ。俺が絶対忘れない、そして再び経験する事が恐らくないだろう素晴らしい体験だった。どうもありがとう 🙂

Benny: 1994年12月のScandinavian White Christmas Tour in Japanの思い出は今も俺の中に生きているよ。良い経験をさせてくれて、大阪、名古屋、東京には感謝しているんだ。
JACKALの時代に俺を戻し続けてくれたもの、常に俺を前に進めてくれたものは、かっこいいギター・リフを思い付く事と、キャッチーなグルーヴを創造し、俺の頭の中のてっぺんでいいメロディーを聴く事なんだ。もうすぐ出る複数のアルバムに注意していてくれ、乞うご期待さ、最初の1枚は”OctoberChild”だよ。沢山の人生の物語が込められていて、日本のファンが気に入ってくれる様な美しくてメロディックなものに仕上がってるんだ。

 

 

 

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