Peter Reis (MADISON) – E-mail Interview(日本語)

Peterの最新ショット。このインタビューの為に「フォト・セッション」をしてくれたそうです。感謝。

 

 

S-ROCK: このインタビューでは特に80年代の思い出について語りたいと思います。今回参加するのは誰ですか?

Peter: ハイ、Peterだよ!

S-ROCK: 公式バイオグラフィーを読んで、興味深いものを見つけました。MADISONが、SkaraのMARIANNE GRAMMOFON ABが持っていたRIXIレーベルと契約していたという事を知りませんでした。彼等のスタジオを訪問した事があり、彼等は沢山のポップ系音楽を発売している会社です。

Peter: ああ、Dan StombergとConny Paynes(以前はSundqvistと名乗ってたよ)は(後のMADISONとなる)REGENTというバンドをやってて、MARIANNE GRAMMOFONのA&RのGunnar Larssonと連絡を取り合っていたんだ。GunnarはREGENTを気に入ってたんだけど、契約するかどうかを判断する為により多くの曲を欲しがった。その時Danは、新しいシンガーが居るより強力なラインナップが必要だと悟って、彼はそれが誰になるか分かってたんだ!その2、3年前に彼はGöran Edmanがブルース・バンドで歌っているのを聴いて、彼の声に魅了されてたんだよ!面白い事に、俺もその場所に居たんだけど、俺はそんな風に思わなかったよ!?そのバンドはクソで、Göranは傑出した存在だったのかな?

そんな訳で、Danは、HudiksvallのDESTINYっていうライバル関係にあったHR/HMバンドに居たAnders Kalsonと俺にも連絡してきたんだ。

俺達はGöranとオーディションをする事に同意して、Hudiksvallの古くて解体寸前の家に集まった。Göranはとてもいい感じで内気に見えたし、Rob Halfordみたいな最も完璧なHMのシャウトを届ける為に彼が口を開く迄は本当に「普通の男」にしか見えなかったんだ!リハーサル・スタジオに顎が落っこちたね!「俺達何を聴いたんだ?!」自分達の耳が信じられなかったよ!俺達が演ろうとしてた曲の1つは、Göranの声の美しい詩的な部分が聞けるDEEP PURPLEの”Soldiers Of Fortune”だった。俺のコレクションの何処かのカセットの中にその時の音は残ってる筈さ。その時から、MARIANN GRAMMOFONのGunnarにインパクトを与えられて、彼等と契約出来るだろうと分かったんだ。Söderhamnにあった、ミキサー・ボード付きの8トラックのオープン・リールがあったGöranのリハーサル・スタジオへ行った。そこで録音したのは”Loons On Their Way”、”Run Boy”、”Pictures return”と”Sneaker”だったよ。残念な事に音に雑音がとても多くてお粗末なものだったから、A&RのGunnarは、MARIANNでの彼のボスのBert KarlssonにMADISONをお披露目するにはもっと音がいいデモが必要だと俺達に言ったんだ。だから俺達は、Hudiksvallの郊外の村Forsaにあるセミ・プロのスタジオFORSA STUDIOで他のデモを製作したよ。録音したのは”Squaealer”、”Sneaker”、”Diamond Mistress”と”Pictures Return”だ。このデモはちゃんと出来たから、契約を勝ち取ったんだ!俺達みんなが契約の為に、俺の父さんの車でMARIANNがあるSkaraへドライブした時の気持ちを今も覚えてるよ!夢が叶ったんだ!

 

「神嵐の序曲」(DIAMOND MISTRESS)の日本盤。

 

84年の夏に、あるアパートの1階にあったMARIANN所有の小さなスタジオへ入ったんだ。たった1週間でアルバム全体を録音したんだぜ!俺達のプロデューサーはTommy Folkesson(今は、ギター・アンプの調整で有名になった男なんだ)になる筈だったのに、彼は初日で降りたと思う。今も何故だか分からないよ?多分俺達のサウンド・エンジニアのJanis Laganovskisか俺達バンドと一緒に仕事するのに困難を感じたのかな?とにかく、俺達のサウンド・エンジニアがアルバムの共同プロデューサーになったんだ…。

アルバムのミキシングと幾つかのアディッショナルVoは2、3週間後にストックホルムのKMHスタジオで行われたよ。このアルバムの音は、あるレビュワーに「内陸の氷面積の下のパンケーキより平坦」と評されたんだ、悪くないね、ふん。まあ、少なくとも曲は良かったんだ、と俺は思うよ!

 

BEST IN SHOWの日本盤。

 

S-ROCK: MADISON解散後は何をしていましたか?日本のファンは、Göranが歌った日本で発売された作品や、MikaelがKING DIAMONDに加入した事はよく知っています。

Peter: 90年9月にAndersと俺はハリウッドにあるMUSICIANS INSTITUTE音楽学校へ行く為にアメリカへ行ったんだ。理由は主に、俺達の音楽のスキルを向上させたかったからなんだ、可能な限りあらゆる方向でね。Andersはギターを専攻し、俺はドラムを専攻したよ。本当に刺激を受けられる学校だったし、本当に楽しかったよ!ドラム専攻の1学期が終わった後、俺はヴォーカル・プログラムへ切り替えした。学校でのヴォーカル・クラスの他に、引退したオペラ・シンガーの女性からオペラ・ヴォーカルを学んだんだ。学校ではアメリカ人の女の子と知り合ってデートする様になった。卒業すると、93年に結婚する事になるそのガールフレンドとアメリカで何度か引っ越しした。フロリダのウエスト・パーム・ビーチ、カリフォルニアのサンフランシスコやサクラメントに住んだよ。フロリダでは、ヴェルディのイル・トロヴァトーレ、ロッシーニのラ・ボエーム、モーツァルトの魔笛のコーラスを歌ったんだ。その中の2つではイタリア語で歌ったんだよ、イタリア語なんて3語以上話せなかったのにね、でも言葉の音を覚えただけで上手く行ったのさ!オペラの世界はとても新しくて、ワクワクする経験だったよ!仮装してステージに立ち、出せるだけの最高のオペラの声で肺の上目一杯で歌うんだ。ラ・ボエームの”Che Gelidad Manina”は今でも俺の好きなオペラのアリアなんだ(俺が歌った訳じゃなくて、そのコーラスに参加しただけなんだけどさ)。フロリダでは、Funkin’ayってバンドでも歌ってたんだ、BOSTONの”Smoking”や”More Than A Feeling”、JOURNEYの”Lights”を歌ったんだ。

俺達はサンフランシスコに引っ越して、俺は更にオペラの勉強を続け、サンフランシスコ・メトロポリタン・オペラのオーディションも受けたよ。不合格だったけど、自分のパフォーマンスと勇気を持って挑戦した俺に万歳だと今も思ってる。

サンフランシスコの後はサクラメントに引っ越したんだ。そこではYESのトリビュート・バンドで再びドラムを叩く様になった。YESのドラマーのBill Brufordが演った音を詳細迄コピーするのは物凄く楽しかったよ、MIで学んだ事で正しい手法を得る事が出来たんだ。

96年に母さんの誕生日を祝う為にスウェーデンに帰国して、それっきりアメリカには戻らなかったよ。俺の本のその章は終わった様な気がしたんだ。勿論離婚や他の諸々については悲しかったし身の毛もよだつ事もあったけど、スウェーデンに留まる事が正しい選択だったと思えたのさ。Hudiksvallではいいドラマーの需要があったから、同時に幾つかのバンドで演っていたよ。THE REVIVALSっていうバンドでは50~60年代の音楽を演ってたんだ。俺にとってはドラムと、リードVoとバック・コーラスどちらも出来て完璧だったね。THE FOUR SEASONSの”Cherry Baby”やTHE BEACH BOYSの”Don’t Worry Baby”なんかを歌ってたんだ。もう1つはSONNYS VÄNNER (SONNY’S FRIENDS)って名前で、”ZEBRAROCK”というタイトルのアルバムを出したバンドなんだ。Spotifyのアプリで聴けるよ。当時は沢山の新しい友達が出来て、その中の1人が吟遊詩人として働いていた若い奴だった。彼はJonas Nymanっていうんだ。Conny Payneと一緒にカヴァー・バンドを始めて、最初のライヴは21世紀に変わる時にスキー・リゾートでやったんだ。バンドの名前はCHARTBREAKERS。FACEBOOKとYouTubeでチェック出来るよ。5年間フルタイムで活動して、1年で約160のライヴをやってた。確かに素晴らしい時だったさ、だってまた音楽業界で仕事が出来ただけじゃなくて、今の妻Maria Reisに2000年に出会ったからなんだ!04年にCHARTBREAKERが終わった後、俺達は結婚して2人の素晴らしい息子達に恵まれたよ!結婚して姓をReisに変えたんだ。Fredricksonよりかっこいいと思ったからね、そう思わないかい?それからはストックホルム中心部で暮らしてるんだ。そして家族の事に注力する様になったんだよ。そして俺は知的障害者を在宅でケアする仕事を続けてるんだ。12年には自分で書いた3曲をレコーディングする為にスタジオ入りした。シンガーとして、作曲者として、スウェーデン語のフォーク・ロックのジャンルの曲なんだ。自分でバッキングVoを録ってた時に、2、3人の友達が色々な楽器とヴォーカルで俺を助けてくれたしね。曲作りは続けていて、俺の最大の夢は成長したらプロの作曲家になる事なのさ。音楽への愛と情熱はまだそこにあるよ!

S-ROCK: 80年代半ばには音楽業界で日本とスウェーデンの間に多くの交流がありませんでした。ビクターがレコード契約の為に貴方達に連絡してきた時はどう思いましたか?松崎氏、貴方達のA&Rだった方です、は彼のお友達が輸入盤を手に入れた時にMADISONを知った、と公式バイオグラフィーには書かれています。日本では全ての盤に「帯」があります、最近はレコード会社が邦題を付ける事は稀ですが、かつては多く付けられていました。MADISONの作品ではDIAMOND MISTRESSに「神嵐の序曲」、そしてTHE TALEには「神嵐の伝説」と付けられていました。これらの意味を聞いていましたか?

Peter: そうだね、80年代の世界は全く違うものだったね。自分達だけじゃプロとしての結果を残せず、レコード契約は必須で、レコード会社と他の人達の行動次第で人々に自分達の音楽を届けられるかどうか、という状況だったからね。世界の他の地域とのコミュニケーションはより難しくてとても時間がかかった。MADISONは、世界での全ての契約を取り扱うマネージメントがあったんだ(MADISONの5人それぞれと、俺達が音楽の製作をするという部分を除いて、ね)。勿論スウェーデンから遠く遠く離れた外国で俺達の音楽が歓迎されているのを知ってとても嬉しかったんだ。

外国のアルバムに日本語のタイトルを付けてたなんて面白いね!神嵐…とても力強くて、聖なるもので満たされてる感じだ…それに恥じない行動をするのって難しい気がする、知らなかった方が最良だったかも?

 

1987年の来日時、名古屋駅にて。

 

S-ROCK: 1987年の日本ツアーの間の面白い話はありますか?FBで当時の写真をシェアしてましたよね、見るのが楽しいです。公営のホールは21時に閉まる為、かつて日本での多くのライヴは18時に始まっていました、最近は平日には19時開始になり、公営ホールでの特にHM/HRのライヴは殆どなくなって、日本で私達が「ライヴハウス」と呼ぶクラブで多くのライヴが開催される様になっています。日本の労働者は早い時間に会社を出る事が出来ず、ライヴ終わりの帰宅の為の電車やバスの時間を気にします。スウェーデン(や欧州の他の国々)ではライヴの開始時間は遅いですよね、(日本では)18時前に開場すると聞いてどう思いましたか?

 

1987年の来日公演より。

 

Peter: 俺達が日本へ行って驚いたのは、俺達が若くて、可愛い男の子達で、純真でほぼ少年だと思われてたって事さ。東京の最初の夜、俺達のプロモーターのミッシュ・マッシュは、翌日の最初のライヴに備えて22時以降は各自部屋で寝る様に求めてきたのさ。だから俺達はおやすみを言って、それぞれの部屋へ行ったさ。勿論夜出掛ける気満々だったから、お互い電話し合って非常口へ逃げ出して、階段を下りて通りに出たんだ。パノラマ式の窓からロビーで座ってたミッシュ・マッシュのお偉いさん達と俺達のマネージャーの驚いた顔を見つめたさ。俺達は通りに走り出て、何台かのタクシーを止め、飛び乗って言ったさ、「六本木迄!」

 

1987年の来日公演より。

 

この行動は、次の夜パーティーから抜け出す決心をした時のパターンになった。高いビルで夕食を食べていて、その後5人のバンド・メンバー達は1台のエレベーターに急いで乗り込み、彼等が気付く前に「下へ」ボタンを押すんだ。Hokus Pokusっていうクルーが階下へ来た時にはもう俺達は居なかった、という訳さ。何処へって?そうさ、また六本木へ行ったんだ!

 

1987年の来日時。

 

日本でのやや早い時間でのライヴ開始は俺達には問題じゃなかったよ、だってその後パーティーする時間がずっと多くなるからさ!

真面目に言うと、スウェーデンの大きなアリーナでの殆どのライヴは19時から20時の間に始まるから、そんなに大きな違いはないんだよね。

 

1987年の来日公演より。

 

S-ROCK: 「神嵐の伝説」の発売は松崎氏のアイディアだと思ったのですが、この12インチ・アルバムについて何か面白い話は?

Peter: いや、この発売に関しては特定の話はないんだ、ビクターにとって発売する事がいいビジネスだったんじゃないかな。

 

「神嵐の伝説」(THE TALE)

 

でも松崎氏についてはこんな話があるんだ。さっき話した六本木事件について彼は個人的に大きな責任を負わされたんだ。彼は自分の車を運転して、バンドの2、3人を見つけると即刻ひっ捕まえてホテルに送り届けたのさ。この事件と、会社での日常業務があったから松崎氏は疲労困憊で立ちながら殆ど寝てたんじゃないかな、ツアーが終わって俺達を空港へ送った時の事だよ。本当に気の毒だった!

S-ROCK: Göran EdmanとMikael Myllynenは87年の日本ツアーの後バンドを脱退しました。彼等と残りのバンドの間で何か問題があったのでしょうか?それとも、彼等は他にやりたい事があったのでしょうか?

Peter: Göranは、87年の日本ツアーに先立ってほぼバンドを脱退した状態だったんだ。何故って?誰もが自分のバンドに素晴らしいシンガーを求めていて、John NorumやVinnie Vincentじゃ仕方ないよ!

勿論MADISON自体がずっと著名な連中からのビジネス・チャンスに対抗出来なかった、というのもあったさ。

俺達のマネージメントは、MADISONとの契約があるGöranを解放する為に100万スウェーデン・クローネをVinnie Vincent達に要求する法的手段を取ったんだ。結局日本ツアーが終わる迄Göranはバンドに残るという契約になったのさ。これに関して以前もその後もMADISONとGöranの間に敵意なんてなかったと強調したいんだ。

Myllie (Mikael)については何があったのか、俺は全然覚えてないんだよね。彼に直接尋ねるべきさ。

S-ROCK: Göran Edmanが脱退した後、オーディションを開催して新しいシンガーとしてPete Sandbergを選びましたね。彼を選んだ際最も重視した事は何だったのでしょう?貴方達の音楽にウエストコースト・スタイルを取り入れたかったそうですが、それは何故ですか?

 

 

Peter: うん、俺達はGöranの代わりを探すのに必死だった、勿論それはとても難しかったんだ!エーテボリのFryshusetの俺達のリハーサル部屋でたった2、3人だけオーディションした。彼等の中にはTony Niva (SWEDISH EROTICA/LION’S SHARE)やZenny Gramm (DESTINY GOTHENBURG)も居たよ。結局俺達はTony YoansonことTony Johansson (MASQUERADE)を選んだんだ、本当にいい声の持ち主で、Skövde出身のかっこ良くて本当にいい奴なんだ!でも俺達のマネージメントKAZAAM INTERNATIONALは、創始者Magnus Rosén (HAMMERFALL)に由来する名前を持つエーテボリのロック・デュオVON ROSEN出身のPetter ”Pete” Sandbergを見つけてきて、彼にすべきだとMADISONに主張したのさ。Petterのロック・イメージは完璧で、素晴らしいウエスト・コースト風の声を持ってたんだ、JOURNEYのSteve Perryを思い起こさせる様な感じだよ。よりAORやウエスト・コースト寄りになってた俺達の新しい作品にはぴったりだったのさ。Petterとのオーディションは上手くいって、俺達の新しいシンガーとして迎える事に決めたんだ。そして俺達はエーテボリにあるSTUDIO LANEでデモ・テープをレコーディングする為のプリ・プロダクションに取り掛かった。曲は、”Northern Light”、 ”In Our Best Years”、 ”This Time I’m Ready、, ”Fair Play”、 ”I Am Alone Here”、 ”Where There Is A Will (There Must Be A Way)”、 ”Venetian Blind”、 ”Time And again”、 ”High On Ice”、 ”Cry Of A heart”、 ”Mammon” と ”Who Loves Me?”だったよ。でも、俺達のレコード会社SONETは、俺達のそんな急激な音楽的方向性の変化(殆どSPINAL TAPみたいな感じでさ)を快く思ってなかったと思うんだ。それでも彼等は、シングルとして新しいMADISONの音を試してみたかったんだ。Northern LightのシングルはSvein-Dag Haugeをプロデューサーに迎えてノルウェーのオスロでレコーディングされたよ。SONETは十分な資金と広告を掛けてくれなかったから、シングルは売れなくて、だからあのプロジェクトは基本的に失敗に終わった。ある日Petterがやってきて、脱退を申し入れた。彼はALIENでのシンガーの立場を手に入れてたんだ。次の日にはConnyが来て、彼もALIENでのベーシストとしての立場を掴んでた。なんて皮肉なんだ!Andersと俺はほんのしばらくMADISONの復活に奔走してたけど、結局俺達もタオルを投げたって訳さ。

S-ROCK: 98年には再結成アルバムをレコーディングする事を話し合ったそうですが、実現しませんでした。曲作りは初めていたのか、ただの話し合いに終わっただけだったのですか?

Peter: 俺達はただ再結成の話し合いをしただけだったよ。Danが曲を作ってたのかは分からないよ?

S-ROCK: MADISONとしてFBを始めて、ファンと思い出を共有していますよね、将来MADISONとして何かをレコーディングしたり、ライヴをやる事はあるのでしょうか?

Peter: うーん、分からないよ?!多分それを望まれた時は、じゃないかな?MADISONがまだ覚えられていて、神嵐の2回目の登場に強力で十分なファン達の支えがある事を祈ってるさ。

S-ROCK: 18年にドイツのPRIDE & JOY MUSICレーベルがBEST IN SHOWのCDを発売しました。その再発盤はどの様に実現したのですか?そして何故「神嵐の序曲」はないのでしょう?

Peter: ユニヴァーサル・ミュージックが「神嵐の序曲」のマスター・テープを持ってるんだ。そのマスター・テープは、スタジオで録音された時はアナログ・テープだった。18年の3月にユニヴァーサルの担当者Peter MannioからSpotifyのストリーミング・サービスで「神嵐の序曲」のオンライン発売をしないかと連絡を貰ったんだ。ボーナス・トラックを加えたり、曲順をどうするか等の可能性を話し合ったよ。奇妙にも、その頃PRIDE & JOYがCDでの「神嵐の序曲」の再発売についてユニヴァーサルに連絡してきたんだよ。PRIDE & JOYはドイツの会社で、数量限定でノスタルジックな価値を持たせた再発アルバムを専門にしているんだ。とにかく、ユニヴァーサルのPeter Mannioは、MADISONにオリジナルのマスター・テープをデジタル・マスタリングしたものを聴いて認める様要請してきたよ。他にバンドが関わった事といえば、曲順とボーナス・トラックと、写真と、ブックレットの文章等かな。

DIAMOND MISTRESSのマスター・テープはワーナー・ミュージックが持ってるのは知ってるんだ。多分簡単に手に入るんじゃないかな、もし誰かが再発したいならね!

 

1987年の来日公演より。

 

S-ROCK: 80年代からの日本のファンにメッセージをお願いします。ありがとうございました!

Peter: 日本でツアーする機会を与えてくれた全てのファンに本当に感謝しているんだ。素晴らしい時を過ごしたよ!これからも俺の心の中にその思い出をしっかり留めておくよ。さあどうかな、また逢えるかも知れないね?!

 

 

MADISON FACEBOOK: https://www.facebook.com/MadisonSweden/